野生動物マニアも兼任している自分は、次のターゲットをチンパンジーに定めた。
フォートポータルからルワンダとの国境方面に南下したところに今回のターゲット、チンパンジー達が住む森がある。動物園で見るのとは全く違う、生チンパンジーだ。
入口でガイドを頼み、長靴を借りてスタンバイOK!
いざ、チンパンジーの森へ。
って、道が無い!そして急な下り坂!
急な下り坂ということは、帰りは急な上り坂ってこと?
いやいや、今はそんなことより生チンパンジーの発見に全力を注ごう。
道なき道の急斜面をガイドの後をただひたすら歩く。
足元は下草で地面が見えず、草の下にはぬかるみや石や木の根がトラップのように仕掛けられており、ツルツルと足を滑らせてくれる。ガイドの話によると蛇やヒル、ムカデなども多数いるらしい・・・。
何時間歩いただろうか、もしガイドとはぐれたら100%遭難してのたれ死にそうな地点まで来たとき、突然ガイドの足が止まった。
そしてガイドがささやく、
「*%#&$“!」(チンパンジーだ、見ろ!)
木の上の方を見上げると、
「おお、生チンパンジーだ!しかもいくら写真を撮っても小銭を要求されない!ピグミー族とは違う。」
その後、何頭も野生のチンパンジーと森の新鮮な空気を共有する。
次のターゲットを森の王者マウンテンゴリラに絞り、いつの日か会える日を心待ちにしつつウガンダの森を後にした。
フォートポータルから2~3時間は走っただろうか、コンゴ共和国との国境付近まで来たところでガイドが、
「ピグミー族の村に着いたぞ」
ウトウトしかけていた目が一気に覚め、クルマを飛び下り小走りで村へ。
初めに村長にごあいさつ。確かに成人男性の割に背はかなり低い。
この村にはかなり観光客が来ているらしく、村長の家の中には来訪者との写真でいっぱいだ。村人は部族の踊りを見せてくれ、口々に写真を撮るように言ってくるものの、そのあとに必ず小銭を要求される。やはり相当観光客慣れしているようだ。
小銭を渡したら渡したらで、「なんであいつの方が多いんだ」的なことを言ってくる輩も現れる・・・。
(う~ん、そういうことなら村に両替機をおいといてくれ。)
案の定小銭が底をつき、あとは紙幣だけに。紙幣を大盤振る舞いする訳にもいかないので、そのあとは村人に気づかれないよう隠し撮りを慣行。
カシャ!
やばい!ばれた!5~6人が手を出しながらこちらに詰め寄ってくる。
言葉がわからないフリをして何とかごまかす。村人は一様に不機嫌な表情だ。
ふれあい交流が半分、隠し撮りのスリルが半分、十二分に満喫したピグミー族の村の訪問を終え、次のターゲット、チンパンジーに会うために道を急いだ。
ある雑誌の見出しで『世界最小の民族ピグミー族』とあるのを見つけた。
少数民族マニアとしては、これは会いに行かないわけにはいかない!
ピグミー族はアフリカの赤道付近の数か国に分布して暮らしている。さて、果たしてどこの国のピグミー族に会いに行くか。ピグミー族がいるのは、ガボン、コンゴ、中央アフリカ、ブルンジ、ザンビア、ルワンダ、ウガンダ。よし、ウガンダに決めた!(自分の中だけで)トントン拍子に事は進み、空路でウガンダへ。
ウガンダの首都カンパラに着くと、早速ピグミー情報を集める。ピグミー族はどうやらウガンダの西の果て、コンゴ民主共和国との国境付近にいるらしい。ちなみにコンゴ民主共和国のウガンダ国境付近は外務省の渡航情報では最高レベルのレベル4(退避勧告)。(う~ん、危険過ぎる。今回は国境を越えるのはやめとこ・・・)国境マニアとしての使命は封印し、少数民族マニアとしての使命に的を絞ることにした。
バスターミナルに移動し、西部の都市フォートポータル行のバスを見つけ早速乗り込む。
にしても、何なんだ?このバスの止め方は!それから、物売りの人多過ぎ!そのせいでバスターミナルを脱出するのに1時間以上を要する羽目に・・・。
フォートポータルに着くと早速クルマの手配。日が暮れる前に会いに行かねば。高鳴る胸を押さえながら道を急ぐ。
イスラム国(IS)の首都とされるラッカという街から直線距離でおよそ100㎞。『パルミラ』という世界遺産に登録された遺跡がある。
パルミラ王国は紀元前1世紀から3世紀にかけてローマ帝国とメソポタミアをやペルシアを繋ぐシルクロードの中継都市として繁栄した都市国家で、ベル神殿、列柱道路、ローマ劇場などが有名なとても美しい遺跡・・・だった。
そんなパルミラ遺跡が2015年5月、ISに制圧され支配下に置かれてしまった。ベル神殿は破壊、凱旋門は爆破され、辺り一面には無数の地雷が埋められたと報道されている。
遺跡に隣接するタドムルの街。
あの日、昼ご飯を食べたあの食堂は、今どうなってるのだろうか・・・。
バスの時間を教えてくれたあの優しいおじさんは、今どこにいるのだろうか・・・。
2017年2月現在、シリア国民のおよそ半数にあたる約1150万人が難民となり、そのうち約400万人が国外へ脱出。この難民数は世界最多、全世界の難民の5分の1はシリア難民ということになる。
ロシア軍の空爆支援の末、2016年3月パルミラはISからの奪還に成功した。
が・・・遺跡のほとんどは破壊され、ユネスコも修復は不可能と判断するほどの惨状だという。
そして2016年12月、パルミラの遺跡は再びISに制圧された・・・。
ほんの数年前、まだこの国は平和だった。
街は活気で溢れ、人々は談笑し、夜遅くに出歩いてもまったく危険を感じることすら無かった。
首都ダマスカスのカシオン山は旧約聖書に登場する舞台。兄のカインが弟アベルを殺した場所。つまり人類最初の殺人事件が起こった場所とされている。訪れた当時は首都の街並みを一望できる夜景の綺麗なビュースポットになっていた。
聖書に記された殺人事件からおよそ2,500年後の今、それと比較にならない程壮絶で凄惨な悲劇がこの場所で起こってしまうことを誰が予測できただろうか・・・。
現在、外務省の渡航情報では全土がレベル4の退避勧告。この国の地図は真っ赤に塗られている。
シリア内戦・・・アサド率いるシリア政府軍と反政府武装勢力との争い。反政府武装勢力には、イスラム国の他、アルカイダ系のヌスラ戦線、クルド人勢力など複数の武装勢力が入り乱れ、先の見通しは全く立たず泥沼化している。
夜になると人々はスーク(市場)に集まり、とても賑やかだ。
在りし日の国家、平和なシリアがその時はまだ確かに存在していた。
三日目の夜が明けた。いや、明けてしまった・・・。
今日はいよいよ帰る日だ。いや、帰らなければならない日だ・・・。
昼過ぎに迎えに来る約束の車はちゃんと来るのだろうか。いや、来てしまうのか・・・。
すっかり愛着が湧いてしまったこのゲルでの生活も終わりに近づき、複雑な思いが芽生えてくる。
家族のみんなも最後の日を意識しているのか、昨日よりも口数が少ない。
「おい、あんた。ちょっとこれを着てみな(モンゴル語)。」
さっきから奥でごそごそと探し物をしていた父ちゃんがモンゴルの民族衣装を取り出してきた。
「これを着たら家族みんなで写真を撮ろう(モンゴル語)」
父ちゃんの言葉に少しウルッと来た。
ブルルルル~!
モンゴルの草原に似つかわしくない機械音が響く。
(ああ、迎えのクルマが来てしまった・・・)
クルマに向かう自分の足がとても重い。重たすぎる・・・。
家族のみんなも泣いている。切ない、切なすぎる・・・。
月に帰るかぐや姫も、きっと最後はこんな気持ちだったのだろう。
「さよ~なら~、みんな。もう会えないかも知れないけど、元気でな~!」
父ちゃん、母ちゃん、プルドルチュ、ドールコルスーレン、サオックスルン、バッツァンナン。みんなの姿がみるみるうちに小さくなっていく。
「最高の旅をありがとう〜!」
帰国後、たくさんの写真と日本のお菓子、それからお土産であげたシャープペンの替え芯を大量に送ったのだが、果たして届いているのだろうか。
以来、テレビでモンゴルの遊牧民の姿が映し出されると、必ず彼らの姿を探すことにしている。
寒い・・・寒すぎる・・・。
モンゴルの夜は冷える。
6月なのになぜにこんなに寒いのか・・・。
あらかじめ夜の冷え込みを想定して、お借りした服を5枚も重ね着し、毛布も3枚重ねたにも関わらず、トイレが近い。近いと言っても実際にはトイレは無い。ゲルの外の好きな場所で用を足す。あまりの寒さに朝までこれを繰り返すこと5回。6回目の尿意をもようした頃、ようやく夜が明けた。
うわっ、よく見たらこの子どもたち、ランニングシャツで寝てたのか。
しかも凍りつく地べたに毛布一枚で・・・。あぜん、と言う他ない。
昨日は半袖で過ごせたのに今日は寒い。6月だからと油断して薄っぺらのシャツしか持って来なかった自分の読みの甘さを痛感する。
首都ウランバートルから車に揺られて3時間余り。建物一つ建ってない大草原の風景もだいぶ見慣れてきた頃、ぽつぽつとゲルが立ち並ぶ集落の前で車は止まり、草原に降り立った。
「ここで今日から3日間過ごしてください。家族には了解を取ってあります。あさっての昼ごろ迎えに来ます。では。」とだけ言い残し、あっけなくガイドはその場を立ち去った。
「大草原のゲルで遊牧民と暮らしたい。」
という一心でモンゴルの首都ウランバートルまでやってきた。そして、宿泊先のホテルの支配人に懇願して、ここまで連れてきてもらったのだ。
お世話になる家族は5人家族。お父さん、お母さん、長男のプルドルチュ、長女のドールコルスーレン、次男のバッツァンナン。
早速、あいさつ代わりに白樺の森へ一緒にお散歩。木登りに興じ、童心に帰る。自然とどちらが高いとこまで登れるか、木登り競争になる。
湘南藤沢の松林で育った自分は、小さいころから松の木登りは得意中の得意。こんな子どもに負けるはずは・・・。負けた。
「そんなに細い枝まで登ったら折れるわ!わかった、降参だからもう降りて来なさい」
ゲルに戻るとこどもたちとお昼ごはん。
食べ終わるや否や、草原でじゃれ合う兄妹。この様子はこちらで詳しく。
それでは虐殺事件以降20年が経過した現在、ルワンダはどのような状況なのか?
改めてルワンダ虐殺事件の全容を振り返ってみる。
・人口700万人のうち、およそ15%に相当する100万人が命を失った。
・その犠牲者の大半が働き盛りの世代で、特に若い女性や子どもたちが多い。
・2つの民族で構成されるこの国で、その後も深く刻まれるであろう民族間の憎悪の念。
これらのことから推測するに、事件後この国が発展してきたとは到底想像し難い。
なんと驚くべきことに、ルワンダはこの20年間で経済的に大きく発展していたのだ。
特にここ10年の間は、毎年7%もの経済成長率を誇っている。
ちなみにルワンダは決して資源国ではない。石油もなければ金も銀も出ない。
では一体なぜ、資源もない、若い世代も少ない、人の心も建物も崩壊してしまったルワンダがこの短期間に奇跡の復活を遂げることができたのか?
この経済発展の理由はいくつか挙げられる。
ルワンダの首都キガリ郊外にある虐殺記念館。
海外からの来館者は多数いるものの、ルワンダ人の来館者はほぼいないという。
あれから20年が経過した今でも、被害者側の民族はもとより、加害者側の民族も決して思い出したくない悲しい記憶なのだろう・・・。